北極茶釜:狸沼(たぬま)のブログ

日記・時事問題、自作小説(R指定?)。/「もえるあじあ」「保守速報」や「余命~」とかをよく見てますw

バタイユの「呪われた部分」3近代産業社会

アステカの天国では、生け贄と戦死者が共に憩っているそうだが、北欧神話のバルハラ(戦死者の楽園)に似ていなくもない。
これは場合によってはかなり危険で過激な逆説的な思想かもしれないが、ある意味で「何も悲しむことはない」という救いでもある。(自分はよく知らないが)ヤスパースの「愛しながらの戦い」などという表現も、あるいはそういうことなのだろうか?

それからポトラッチにしても(自分はマルセルモースは読んでいないが)、やり方によっては(儀式敵な敵対や見栄以上に)親睦や友好の意味もあっただろう(人間の交際交渉のシステムや心理の多くはその変奏として解釈しうる)。
東アジアの「朝貢貿易」などもその歴史的な典型例なのだろうが、シナ大陸を支配した共産主義者たちはそれを理解できていない(唯物論では、純粋な「物」と冷徹な利害の次元でしか考えられないのだ)。

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さて「呪われた部分」本論後半部分から、近代産業社会への考察のこと(マックスウェーバーなどの説を中心に話が進んでいるが、自分は読んだことがないw)。書かれたのが終戦直後で時代差もあることだし、自分なりの解釈や見方を含めて、この追加記事を書いている。

 中世ヨーロッパのカトリック(旧教)世界では、「余剰」は防衛と宗教に割り当てられて、(貧しさや歪みはあれども)それなりの社会の均衡があった。ただ、極度にストイックなプロテスタント(清教徒カルヴァン主義)が登場したことで大きな変化がおきた。
清教徒たちが問題視したのは単なる贅沢や腐敗だけでなく、富を宗教につぎ込むことで精神的満足やかりそめの救済を得る生ぬるい態度だった。彼らにとって魂の救済とは、喜捨や祭儀(人間の働きかけ)で得られるものではなく、ひたすら天の神様の意志による。ゆえに仕事を天命であり救いが約束された証と思って、ひたすら(地上の「物」の次元で)謙虚に生きるしかない。
その影響と結果として、生産性と経済成長効率は格段に向上したものの、(初期イスラムとはまた少し違った?)形骸化現象にみまわれ、人々は「諸物」の氾濫した次元のカオスに路頭に迷うことになる。
なぜならば「生真面目で簡素で敬虔な生活態度と仕事と労働だけを糧に、天の救いを信じ抜く」というのは、特殊な宗教的才能がある人たちだけにできることで、万人への無条件な強要は無理がある。しかも一度社会が変化してしまうと、変革初期の動機や理由がわからなくなってしまう。

その延長上にあるのが現代社会で、共産主義というのは急進過激派的なヒステリーでカルト宗教なのだと私は思う。あるいはバタイユは「ノスタルジー」と笑うのかもしれないが、自分としては古い伝統や精神文化を見直し、温故知新するほうが現実的と考える。
あるいは過去の一時期は(共産主義が)決定的解決策と見られたかもしれないが、結局のところ「革命の果ての理想的な共産社会」は「死後の天国」に似た偶像的な崇拝対象や信仰でしかない。奴らがやたらと破壊や暴力を好むのは、本人たちがいかに正当化しても「蕩尽」へのカタルシスと解放感の原初的な願望でしかない。
そして「これから」、彼ら(共産党フレンド)は望み通り、アステカの生け贄のように破壊される。ようやく望んだ(現世を越えた)「至高性」に到達できそうで、良かったですね(冷笑)。