北極茶釜:狸沼(たぬま)のブログ

日記・時事問題、自作小説(R指定?)。/「もえるあじあ」「保守速報」や「余命~」とかをよく見てますw

観念論と自由(シェリングの序論から)後

さて、議論として(どこまで正しい)どうかはさておき、人間にとって「自由意志」は(それを想定するしか)なくては現実にどうにもならない。つまりハイデッガー流(またはニーチェ流)の「実存的生物学的カテゴリー」といった具合で、人間の「生」の仕組み上、必然的にそういう考え方にならざるを得ないのである

ちなみに「唯一神」の発想は、我々日本人には馴染みが薄いかもしれない。
しかしながら世界観を突き詰めて考えていけば、「究極の(唯一の)原因」に必ず突き当たる。古代ギリシャプラトンやアリストテレスもそうだった。古代インドの哲学などでも似たような具合で、天則(リタ)だのブラフマンだの、仏教の法(ダルマ)だの。ゆえに日本人は、古代ギリシャ人やインド人と同様に「多神教一神教」なのであって(聖徳太子が仏教を導入した事情もある)、それゆえにヨーロッパの古典的な哲学に共感や関心を持てるのだと思われる。

 

 

とりあえず序論第一章(僅か数十ページ!)をネタに、「自由」と観念論哲学の話を書いてきた。
第二章以降を読もうとするも、あまりにもキリスト教を信じている前提の「ファンタジー」の赴きが強いようだ(ヘーゲル弁証法ァンタジーの方が見た目の説得力は強いとは思われる……)。カントの実践理性批判のようなプレーンな理詰めというより、キリスト教提の時点で「神学」に近いのではないだろうか?
ただ「無価値か?」と言えばそうでもないだろう。人間というのは抽象的すぎる原則だけで満足しないし、伝統宗教(やそれに結びついた倫理)が生き続けるには「観念的な信仰や信念のモデルやイメージ」も有益ではあるだろうから。たとえば日本の古い仏教説話だの、日本の皇室や伝統の価値と意義を論ずる「国体論」などを考えてみたらわかるはずである。精神文化の涵養やメンタルな耐久力の強化などでも効用はあるだろう。

なお、観念論の「狂信化リスク」については先に述べたが、実在論や機械論の方向にも同様のリスクはある。徹底した「唯物論が拗れて「裏返った狂信」にまでなったのが共産主義である(バタイユも先の著作で指摘している)。

……連中は「歴史の必然だから」という理由で(自己正当化して責任放棄しながら)暴力テロの嵐で、共産暴動や敗戦革命工作、自国民虐殺やら大躍進や文化大革命、つい先日にもコロナをばらまいて世界テロ(世界侵略実行中)。これでは被害を受ける側にはたまったものではないし、まだカントやシェリングの穏当な観念論の方が格段にマシだと思われる。