北極茶釜:狸沼(たぬま)のブログ

日記・時事問題、自作小説(R指定?)。/「もえるあじあ」「保守速報」や「余命~」とかをよく見てますw

上級者と革命の摂理(※バタイユの読解記事に関連してw)

先月にバタイユの著作「呪われた部分」読解のエッセイ(四分割)でチラと書いたことでの、追加考察みたいな話になる。

仮に世界が「古代ローマのコロセアム」のようなものだとしたら、という話(バタイユが挙げたアステカ人の人生や世界観に似た、学生時代の思いつきと妄想……当時は「結局は有象無象の暴力が全てではないのか? 行き着く先は最終戦争的状況しかないのではないか?」などといった陰鬱な観念が強かった)。

……もしも世界を作った全知全能の神様が残虐と犠牲を喜び、人間存在が奴隷剣闘士や生け贄の家畜のようなものだとしたならば。
そして続けて考えたことには「それでは(凶悪で悪辣な)犯罪者は一種の「生贄師」のようなものなのではないのか?」と(しかし常識的に考えて倒錯した可能性であり、それが正しいのだとしたら「真に絶望」しかない)。だが、さらにこうも考えた。「他人を餌食や犠牲者にするのが素晴らしいことならば、害悪を撒き散らす犯罪者は(人間の中でも)素晴らしい存在で、それゆえに「最高の生け贄」でもあるのではないか」と。つまり犯罪者は「下級の生贄師」であるとともに、「上級の生け贄」でもある。

そこで「上位捕食者」(上級者)の概念に思い至った。

これが生物学なら、犯罪者というのは野菜や植物(善良な一般人)を食べる草食動物が「野獣気取り」でイキッているのと同じで、しょせんは本当の肉食獣(警察やバットマンの類)からすれば奴らこそ「餌」でしかない。真の大型肉食獣(虎やライオン)は野の花を食べたり小動物(スズメやハムスターとか)を血眼で追い回したりはしないものではないだろうか? ……たとえば漫画「ジョジョの奇妙な冒険」などでも、吸血鬼が出てくるが、実は(その漫画の世界で吸血鬼は)さらに上位の超生物の餌でしかない。外国の吸血鬼アクション映画でも、似たような話がある。
ならば犯罪者(世俗倫理だけの話ではなく、ランク的な低級さという意味でも)になるのはつまらないことだ。むしろそういう奴らを補食して餌食にする方が望ましい(その方が「上級の生け贄師」としての価値ある生き方ではないだろうか?)。一般に悪い奴の方が金とか色々持ってるし、同じ襲うのだったら一般ピープルの善良な弱者より、そっちの方が実入りも良くてしかも気分的に不快でもない(さして心も痛まないw)。

……人間として一番高尚なのは「ナマハゲ的実存」として、一般ピープルにはせいぜい「泣く子はいねーか?」の馴れ合いで済ませ、本命の方々には「悪い奴いねーがー?」と刃物を持って殺意を漲らせた笑顔で遊びに行く感じ(笑)。南無!
だからパヨク利権マフィアや悪質在日外人、シナ共産党などは(食肉的な意味で)素晴らしいと思う。私は彼らに賞賛を惜しまないし、「肥え太って肉付き良いですね」「君たちに会えて良かった」と褒めてあげたい。豚や羊を眺めるライオンや狼の気持ちのように、怒りではなくどこか優しい感情すら込み上げてきませんか?

    *  *  *
余談ながら、もしもある種の闘争だの戦争が「生け贄の祭儀」として最高の価値を持つのならば、それは「上級者同士での贅沢な戦い」だからなのではないだろうか?

なお、あの中国大陸の伝統的な歴史文化では、腐敗した悪逆な支配者が民衆によって倒される慣例がある。肉食文化であることもあり、しばしば飢饉の際の人肉食のことが歴史書にも出てくる(「漢書」の帝記でそんな記事が何度も出ていた)。けれどもそれとは別に、罪人や悪逆支配者を「食肉」にする話がよくある。通常は犠牲者として雑草のように食い散らされている民衆が、突如として覚醒し、捕食者を逆に餌食にする現象、それを「革命」と呼ぶのである。
だから「革命」をマルクス共産思想による偏向イデオロギーでとらえてはならない(そういう認識こそ冒涜であり侮辱でしかない)。それは中国三千年の悠久の歴史を貫く、生き生きとした魂の発露なのである。これから共産党が食肉の供儀されるのも、そうした次第であって、「最終革命の支配」を詐称したのは摂理を歪めた支配のためのプロパガンダでしかないことを理解しなくては

そして自然一般においても、植物を食べていた草食動物が死んで「肥料」になるのは摂理なのである。これから国内の反日利権が討伐されるのは物事を「自然なサイクルに還す」ことなのだから、慌てたり動じたり悲しむことなど何もないのではないだろうか?