北極茶釜/陸戦型たぬきそば

西洋史エッセイ、コントと寓話、時事問題など

二人のフリードリヒ二世

「二人のフリードリヒ二世

1
 知る限りでは、西洋史上で二人の「フリードリヒ二世」がいて、いずれも英傑であった。
 そのうち一人は中世ヨーロッパの神聖ローマ皇帝シチリア島(イタリア南端)の別荘に宮廷を置いて(母方がたしかそっちの家の出身)、開明的な人物だったそうだ。聖地エルサレムを巡る争奪戦で、まともに戦争するのではなく交渉で巡礼の安全を確保したりして(?)、かえって(聖戦として)「邪道で妥協的」とローマ教皇や周囲から非難されたりしたらしい。こちらの人物は塩野七生が著作にしていたようだが未読である(なお当時の聖地巡礼ツアービジネスについては同氏の「ベネチア共和国一千年」に詳しい)。
 たしか十字軍でアジアに深入りして死亡した赤ひげ王バルバロッサの孫(?)だったはず(バルバ=ヒゲ、ロッサ=赤い)。敵地に猪突猛進して自滅してしまうのはドイツ人的な民族性の愛嬌かもしれないが、遊撃戦で移動中に渡河で溺死したのは不運としか言い様がないだろうよ。


2
 もう一人の同名人物は近代に入ってからのプロイセン(ドイツ北部?)の王様。
 親父のフリードリヒ一世は「兵隊王」と呼ばれたゴリゴリの軍国主義者。ただし真面目で勤勉で誠実な人柄ではあったようで、配下の公務員がサボって国民から苦情がきたときには素直に詫びて対応した逸話もあるようだ。国力を蓄えて当然である。
 ただし若かりし息子の二世は教会の説教中にフランスの小説を読んでいたり、(堅物の親父と軍国主義を嫌って)従妹のいる文化的な小国に逃亡を企てたりしたようである(捕縛され、「お前は名誉の観念がないのか!」と激怒した父王から、一緒に脱出しようとしたお供の友人が処刑され、その光景を見せられたらしい)。
 即位後には「啓蒙専制君主」の典型の一人に数えられるが(根の性格が真面目だったとしか思えない)、やはり持ち前の学問や教養がものをいったのだろう(真面目で勤勉なだけというのとは一味違った?)。啓蒙主義の代表的学者のヴォルテールを客人に招いたりもしたようだが、生涯独身だったらしい。若かりし日の従妹への失恋や「三婦人同盟」との戦争のトラウマを引きずっていたのかもしれない(笑)。


3
 さて、プロイセンの啓蒙専制君主フリードリヒ二世(大王)を苦しめた「三婦人同盟」とは何か?
 それはオーストリアとロシアとフランスを同時に敵に回して戦争したことで、当時は三国とも女性が実権を握っていた。
 発端はフリードリヒ二世の自業自得で、オーストリア帝国の領土だったシュレージェン地方を強奪接収しようとしたことに起因する。それでも死闘の末に勝利したので「大王」と尊称されることになったが、一時は自殺を考えるくらいに物心両面で追い詰められていたそうな。
 その頃のオーストリアはマリアテレジア(皇帝の跡取り娘で、フランス革命で処刑されたマリーアントワネットの母親)が女帝として実権を握っていた(日本やアジアの君主とは継承の伝統文化が違うため)。ただし実際には「皇妃」でしかなく、自分自身が皇帝として即位していたわけではないし、むしろ良妻賢母だったとしても知られている(息子の皇太子は後に啓蒙専制君主に数えられる英才であった)。もちろんフリードリヒ二世については「あの悪党が!」と後々まで恨んでいたようだ。
 ロシアはたしかエカテリーナ女帝(?)だったはず(啓蒙君主と見做される人物)、小国の君公の家から輿入れしたのだったと思うが、夫の皇帝がダメダメだったので実質的に皇帝の仕事をやるしかなかったようだ(しかも夫はフリードリヒ二世をリスペクトしており、マリアテレジアの皇太子もそうだったらしいw)。彼女が戦争中に死亡したことが同盟崩壊と勝敗に決定的だった。


4
 そしてフランス、ルイ十五世は愛妾(モンテスパン侯爵婦人?)に牛耳られていた。
 十五世が曲者で「私の後には大洪水(国が破綻する)だろう」という乱脈と無責任ぶりで、フランス革命の起きる下準備をしたような人物だった(ルイ十四世の栄光と繁栄を食い潰した)。実際にギロチンにかけられたのは先代の責任を押しつけられた十六世だから哀れなものだ(既に国内がガタガタだったろうし、まともな状態なら革命など不可能だし誰もやろうと思わないだろう)。
 そんな状態の国が味方としてどの程度の役に立つだろうか? しかもルイ十五世を言いなりにしていたのはしょせん愛妾でしかなく、指導者としての正統性や人望があった(部下が自発的に奮起して戦う)わけでもないだろうし、国際政治の知力で賢かったかどうかもすこぶる怪しいと思われる。