北極茶釜(再度に逃亡w)

西洋史エッセイ、コントと寓話、時事問題など

ハプスブルク家と帝政ロシアの顛末

ハプスブルク家帝政ロシアの顛末」

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 もともと、ハプスブルク家はあまり好戦的なタイプの家柄ではなかったようだ。
 中世の頃に選帝侯の会議で皇帝に選出されたのは、有徳だがあまり力のない小領主であったために、ドイツ諸侯の圧政支配者というよりも調停者としての働きを期待されたのだろう(地方有力者たちの分立する傾向があって、フランスのように王権による中央集権支配体制の発達は遅れていた)。
 たしかに皇帝家になったことで勢力を拡大したのは事実だろうが、ハプスブルク家の場合には侵略戦争で武力制圧するよりも、巧みな交渉術(政略結婚)によるところが大きかったようである。
 一次大戦までオーストリアと東欧を支配してどうにかまとめていたようだが、独立後のバルカン半島が各民族の内戦で収拾がつかなくなったことは周知である。
 日本の天皇家と異なり、比較的に若い家柄で人間の君主(現人神とされるほどの無上の権威はない)であったために、最後には敗戦で退位することになる。
 ただ、国民からは最後までそれなりに愛されていたようで(力及ばずも最後まで国と国民に尽くした)、復位を要求して祖国に潜入した際にも、親しかった臣民から(殺されず)無事脱出させられている。現在は末裔の大公は(普通に信望ある名家の当主として)国会議員になっているようである(名目上は皇帝と兼任していた「ボヘミア王」の位は退位していない建前であるようだ)。


2
 ロシアの帝国としての勃興は意外に新しい。モンゴル世界帝国の時代にそちらと結びついたモスクワ公(?)が力を持ったのがきっかけで、皇帝を名乗ったのはイワン四世(雷帝)の時代からである(アンリ・トロワイヤの著作などを参照のこと)。シベリアを完全に制圧したのはさらに新しく、元はヨーロッパに近い西部が中心だったようである。
 あえて「皇帝」を名乗った理由の一つとしては、東ローマ(ビザンチン)帝国との婚姻関係が挙げられ、宗教的にはギリシャ正教の司教が(東ローマ帝国の滅亡時に)ロシアに逃げ込んだとか。それでコンスタンチノープルを制圧奪取したトルコとは、歴史的にライバル関係であった。
 また、ウクライナの首都キエフあたりは古い土地柄で(黒土帯と呼ばれる穀倉地帯でもある)、モスクワ(ロシア)とは近親民族同士で対立しているところがある。ウクライナリトアニア(?)やポーランドと連合していた時期があるが、色々と割を食わされることも多かったようだ。
 また、西ヨーロッパ(や日本やアメリカ)と違い、正義の独裁を良いとするアジア的な政治伝統があるようだ(この点では中国などに似ている)。


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 最終的にはロシアは皇帝を隠密処刑して共産化(ソビエト連邦)したわけだが、前大戦の激化した理由はコミンテルン共産主義ネットワーク)が自由資本主義国同士を潰し合いさせて弱らせるため、スパイ工作やプロパガンダで焚きつけていたらしい。
 当時の日本やアメリカの政府機関内部にも大量の共産主義のシンパ工作員が策動していたようだ。(「鬼畜英米」のプロパガンダで憎悪と敵意を煽ったのは新聞であったし、GHQ内部にも大量の工作員がいた。
 また二次大戦中に赤軍は「ポグロム」と呼ばれるユダヤ人への弾圧と虐殺を行ったが、戦勝国となったことや各国の共産シンパによってなのか、糾弾もされなければ話題にもならないのである。